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「……」
いずみは己の身に突然降って沸いたとんでもない悪意に、まだ気づいていない。しかし、兄に呼び出された先が応接間で、そこにいずみのもう一人の主・佐倉 京がいたのだから、『これから何かが起こる』のだろうな、という現状は理解した。
(なんだこの状況……)
部屋に時計の音だけが響く。
沈黙を破ることもできず、いずみは黒目だけで応接間を見渡した。普段自分が使う寮とはまるでちがう、広い応接間。フランス旅行の際に購入したというシャンデリアに、ベネツィアグラス、ペルシャ絨毯と、各国の豪華なアンティーク達は、屋敷の主人、つまり『旦那様』が大切に収集しているコレクションである。
ここには仕事で何回も出入りしたけれど、客人としてソファーに腰掛けるのは初めてだったため、いずみはすっかり固まっていた。
そんな弟に、雅人は自分と錬一の悪意が爪の先ほどでも滲み出ないように、つとめて優しい顔をつくる。
「……いずみ?楽にして」
対面側のソファーに腰掛けたまま、随分前にすすめた紅茶を、もう一度飲むように促した。一方のいずみはというと、すっかり冷めてしまった紅茶を不器用に飲み干し、つばさえ上手く飲み込めずに眼前のふたりを見つめた。
「はじめまして、かな?」
いずみの全神経が京へと向けられる。
いずみはもう、雅人の隣の京が気になって仕方がなかった。これから彼に何を言われるのかまったく想像がつかないし、わざわざここに呼ばれた意図もわからないし、何より彼の完璧な立ち振舞いやルックスに対して、いずみは『食えない男だ』と強く感じていた。
主に向ける言葉ではないが、この人物は少し苦手だ。
「いつもよく働いてくれて感謝しているよ、いずみくん。俺は京。よろしくね」
紳士的な態度で笑顔をくれた京に対し、いずみは緊張と反感とで、「……はあ、ありがとうございます」と返すのがやっとだった。そんな反応が意外だったのか、京は苦笑いを浮かべる。
兄と寄り添って座る主を、いずみはただ無言で見つめた。ふたりが恋仲なのは寮では有名な事実である。豪華絢爛を誇るこの部屋に、眉目秀麗、名実ともに王子である京と、天真爛漫、美しい笑顔でこちらを見つめる雅人、そして自分。
いずみは、理解しがたい己の現状に、今一度小さくため息を吐いたのだった。
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