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アール氏は少し歩いた所で足を止めた。
彼の勤め先の会社があったのだ。
今にも潰れそうな会社は、日を追うごとに哀愁を孕んでいく。
「もうすぐ、長年通い詰めたこの会社も・・・」
アール氏は落胆の表情を浮かべた。
かなりの距離を俯いて歩き、
気付くと彼は煙草の自動販売機の前にいた。
薄暗い中、朧気に光る錆び付いたその機械は、この世界を体言しているようにも見えた。
戦争のため、煙草には重い税が掛けられ、
今となってはレストランで食事をするよりも遙かに高い額になっていた。
彼が紙幣を何枚か差し込むと、
自動販売機のボタンが数回点滅し、煙草が一つ出てきた。
「・・・・・・」
アール氏は少しかがんで煙草を
自動販売機から取り出す。
それを掴む彼の掌は、痙攣したように激しく震えていた。
彼にとっては、
やっと手に入れた煙草より、
点滅という形で自分に答えてくれた自動販売機の霞んだ光の方が
ずっと愛おしく思えたのだった。
そう、もうこの世界に自分という存在を確認させてくれるものは、
この自動販売機を残すばかり。
彼は煙草の箱を破るようにして開けると、
掌に残ったゴミを道ばたに捨てた。
それを気にする者は誰もいない。
風に流れたそのゴミは、道に捨てられた誰かの右腕に引っ掛かり、止まった。
それをついばむ黒い烏たちは、地上の王にでも成ったかのような満足げな表情を浮かべている。
一月前に起こった戦争で、彼以外の人間は全て死に絶えてしまったのだ。
倒壊した建物が横たわる街に、
ゴミのように散らばる無惨な人間。
誰も片付けない、ゴミと言う名の死体と瓦礫の山だ。
五日前に妻が死んでから、倒壊寸前のかつての勤め先を見る度に、
彼の虚しさは増すばかりであった。
荒廃した街には硝煙と人間の腐った臭いが立ち籠め、
吹き抜ける風だけがここが地球であるという片鱗を残す。
アール氏は掌で風を遮りながら煙草に火をつけ、
静かに眼鏡を外すと、放射能を孕んだ灰色の空を見上げた。
光を失った彼のその瞳は、
いつかの空を見つめるようで・・・
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