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『こちらの宿はなんや寂しいとこにあるんですなぁ』
少し腰の曲がった里子は縁側に腰掛けながら三郎の横で言う。
『えぇ、確かに寂しい場所ではある、まぁ里子さんの療養にはここが一番ですよ』
正面に見える葉桜を遠目に見ながら三郎は答えた。
『皆さん私の療養や言いますけど、私はどこも悪いとこおまへんのに、なんや私はどこか悪いとこでもおますんかい?』
そんな里子の質問に三郎は慣れている事もあって驚きはなかった。
『療養言いましても身体が悪い訳じゃないですよ、毎日窮屈な所で生活してるから息抜きです、そうそう、息抜きです』
三郎は両膝の上に拳を乗せて相変わらず葉桜を遠目に見ながら答える。
『さようでしたか、ほなのんびりできますなぁ』
口に手を当てがいながらホホホと上品に笑う。
二人の前をアゲハチョウのツガイが忙しく往復する。
その時、蜩が鳴き始めた。
カナカナカナカナ……。
何とも耳障りの良い蜩の鳴き声。
山肌から滑り落ちてくる風も心地よさを手伝う。
三郎は深く呼吸を風と蜩の鳴き声に合わせた。
里子の髪がフワリとなびく姿を横目で眺めた。
そのフワリと揺れる髪を三郎は指先でそっと耳元にかきあげる。
‐‐いつ頃からだったかな、あなたの髪が白くなり始めたのは‐‐
『すんません、なんやおババになっても照れるもんですな』
里子の頬が桜色に変わる。
『おババだなんて、里子さんはまだまだお若いですよ』
『まぁ、お上手なこと』
桜色の頬を隠すかのように手の平でその頬を撫でる里子。
『シワシワですがな』
オホホと口に手をあてがい上品に、また笑う。
『希望ヶ丘のヒマワリ畑を覚えてませんか?』
『私がですかいな?』
『えぇ……』
『ヒマワリは知ってますけど、畑言うくらいやから、ぎょうさんヒマワリが咲いておますんかい?』
『えぇ、辺り一面真っ黄色です』
『そんなぎょぅさんのヒマワリは見たことおまへんなぁ』
『そうでしたか……』
三郎はボロボロの本を手に取るとゆっくりと開いた。
その本には何も書かれてはいない。
……白紙の本だった。
『あなたがヒマワリ畑で幸せを見つけた事が書かれています』
『さようでしたか、私のことが書いておますんやな』
『えぇ、あなたが書いた日記ですから……』
里子は五年前の夏に痴呆症と診断されていた。
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