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蜩の鳴き声が夕焼けを連れてくる。
カナカナカナカナ……。
縁側で白紙の本を読む三郎。
それをじっと聴きいる里子。
『なんや、お腹空きましたなぁ、夕飯はまだですか?』
一時間程前に夕飯を済ませたばかりだったが里子は忘れていた。
『今し方食べましたよ』
『さよか? 歳は取りたくないもんですなぁ』
『あはは、確かにそうです、私もしょっちゅう忘れてばかりです』
夕焼けが迫っていた。
柿色に染まる空の彼方に、里子との思い出が蘇ってくる。
その思い出を一層リアルに蜩の鳴き声が運んでくる。
カナカナカナカナ……。
『結局私はお見合いしましたんかい?』
髪を耳元に掛けながら里子は三郎の横顔を見た。
『えぇ、お見合いへは行ったみたいですね』
『さよか……全然覚えてないさかいに……』
『そのうち思い出しますよ、人間誰しも忘れる事は多々ありますよ』
すぅーっと、吹き抜ける風に里子の長い白髪が揺れる。
三郎がゆっくり耳元に掛け直す。
『なんや、恥ずかしいですわ』
里子の頬が桜色に変わっていく。
『スイカでも食べますか、種飛ばしでもやりませんか?』
三郎はそう言うと白紙の本を閉じて台所へと向かった。
里子と隠れながらスイカを食べた記憶が蘇ってくる。
ドキドキしながら食べたスイカの味は殆ど記憶にはなかったが、スイカを頬張る里子の顔だけが、未だに三郎の脳裏に住み着いていた。
〔一度だけでいいんだよ、思い出してくれないかい……この手で、もう一度、抱きしめたいんだ〕
三郎は鼻を啜りながら、スイカをまな板の上で手際良く切った。
台所の窓から漏れてくる、蜩の鳴き声が三郎の目頭を煽る。
カナカナカナカナ……。
……また、鼻を啜った。
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