【彷徨】さまよう女

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「私は昭和41年に仙台で生まれました。どこで誰が産んだのか?私にも解りません…物心がついた頃、私は施設に居ました。お父さんやお母さんの顔さえ解りません。小学校に入った頃、他の子供達と私は違うんだ…という事がわかって来ました。母親参観日なんか、他の子供達は『お母さん』…『ママ』…と呼んでるけれど、私はいつも施設の先生で…『先生…先生…』と呼んでいました。この寂しさと悲しさは今も忘れた事はありません」 「そっかぁ…可哀想にね…それから?」 「小学校でもイジメにあったりしてたけど、無事に中学校に入りました。この頃になると、友達の家に泊まったりして、施設の先生に随分と怒られた事もあったけど、私は遊びに行ったり、泊めて貰っても、私はその友達を呼んであげる事も、泊めてあげる事も出来ない悔しさが「早く中学校を卒業して社会に出たい」と思っていた。しかし特別な理由がなければ、18才まで施設に居なければならないけど、私は中学校を卒業して、高校にも行かず施設を飛び出して、昭和56年の桜のつぼみが綺麗なピンク色になった頃か…今まで世話になった先生や仲間達には悪いと思ったけれど、最初の日は鉄砲町の友達の家…、2日目は二十人町の家、3日目は中掛町の友達の家を点々として居た。…が、お金もない、どうするか?仙台の街にあまり居る分けにも行かず、手っ取り早くお金が稼げる場所…。水商売しかないと思い、仙石線…仙台から石巻まで行っている電車に乗った。とにかく早く仙台を離れたかった…。とは言っても、何処に行く当てもなかった。この頃の仙台の東口駅前は、通称『駅 裏』の仙石線駅前は細い道で砂利道だった。今の様に綺麗に整備されてなく、駅前といえど高いビルなんか何もなく、寂しい所だった。仙石線は国道45線に沿って走っている。最初の駅は、榴ヶ岡…宮城野原…原ノ町…苦竹。左手に飲み屋街のネオンが色とりどりに見えてくる、此処で降りようか?いや、此処では街に近すぎる。福田町…高砂…中野栄…多賀城…『本塩釜駅』に着いた。私は「そうだ、前に松島に遊びに来た時、塩釜港から連絡船に乗った事があった。港町で夜働くのが良いと思った。尾島町に行くと飲み屋街だった。
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