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「それで?」と彼女は受話越しに訊いた。取り残された後どうなったの? と。
「うん」と彼はうなずいた。そして携帯を持ちなおして言った。「満月を見た」
「はあ?」彼女は間の抜けた声を出した。「なんでそこで満月? あんた狼男か」
「いや、散歩に出かけたんだよ」
「散歩って、なんで?」
「煙草を買いに」
「ちょっと待って……。急な展開に話がつながらないんだけど──電波のせいじゃないよね? 深刻な話かと思って聞いてたら、のんきに散歩、さらには月見? だいたい煙草やめたんじゃなかったの?」と彼女はまくしたてる。
「気分転換だよ。疲れて考えるのをやめた。自然な流れだろ?」と彼は弁明した。
「まあいいわ」彼女は諦める。「ビルの屋上に行くよりはマシね」
「だろ?」と彼。「まあとにかくおれは思い詰め、その気晴らしに散歩したんだ」
「そして満月を見た──そういうことね……。それがなんだっていうの?」彼女は苛立っている。
「うん。そこで重要なのは……、その時見た満月が特別に珍しいものだったってことなんだ。とにかく綺麗すぎた」
「とにかくって、具体的に……どれくらい?」
「生涯で一番」と彼は即答する。「それもぶっちぎりで」
「なんで? 満月なんていつも一緒じゃない?」と彼女。
「だいたいはね」と彼は訂正する。
「精神的にってこと? 疲れて頭がおかしくなったんじゃないの?」
「違うよ。月の位置や大気の関係上、“たまたま”実際にすごかった」
「……どんなふうに?」
「普段の倍は明るかったな。明るすぎて空や雲が透き通って見えるほど。色鮮やかで手に取るような質感があった。時間を忘れて見惚れてしまったなあ」
「ふうん……」と彼女はぼんやりと相づちをうった。
「たぶん考えてもわからないよ。実物とイメージってのはかけ離れたものだから」
「なによ? いいじゃない」と彼女。
「おれが言いたいのはそれは予期せぬ偶然の産物だったってこと。たまたまあの晩に、たまたま散歩に出かけて、たまたま月を見る。それがたまたま思い出に残るほど美しいものだった──すごく幸運な巡り合わせだと思ったんだ。自身の幸運にさえちゃんと気づいていれば、ほとんどのことが、わざわざ思い詰めるのもばからしいほどささいなことのように思えた。それで復活した。現にそれからは今のところどうとでもなってる」
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