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「……どうもピンとこない」彼女は訝った。
「理屈じゃないからね」と彼は言った。「これは現象なんだ――極めて生理的なね」
「うーん」彼女は考える。「結局なにが言いたいわけ?」
「とりあえず……ずっと連絡しなかったのは詫びるから、気晴らしに今度うまいものでも食いに行かないか?」
「はあ?」
「いや、ただうまいってわけじゃない。たまには思い出に残るような、本当にうまいものでも食いに──」
「だからちょっと待って」と彼女は口をはさむ。「なんでいきなりそうなるわけ? だいたいねえ、あたしは連絡取れなかったことを責めてるんじゃなくて、心配してたのよ」
「よくわかってるよ。だからこっちも余計に心配かけたくなかったんだ」
「むう」彼女は考える。「さっき言ってた……本当にうまいものってなに?」
「シンプルでちゃんとしたやつ」と彼は答えた。「つまりもろもろの必然的な事情によって、権威や俗流に汚染されてないもの」
「……よくわからないけど」と彼女は言った。「本当にそんなものあるの?」
「幸運なことにね」と彼はうなずいた。
「例えばどんな?」
「例えば──腕のいい職人が生地からこねて、専用の釜で適正な温度によって焼く、愛情のこもったピザとか」
「ふむ」と彼女は言った。「いいね、それ」
「決まりだ。じゃあ週末迎えにいくよ。そうだな……朝の11時半くらいでいい?」と彼は訊いた。
「うん、それでいい」問題ない、と彼女。
「おっと、もうこんな時間だ」と彼。「明日の朝早いんだ」
「うん、わかった」と彼女。
「それじゃあ」と彼。
「うん」と彼女。
「おやすみ」
「うん……、おやすみ」
彼女は見上げて携帯を閉じた。空には月が、いつもと同じように、変わらず浮かんでいた。思い直したようにビルの屋上から自宅に帰る――その表情は穏やかだった。
丁寧にメイクを落とした後、丹念にからだを洗う。そしてゆっくりと風呂につかった。ちゃんとパジャマに着替え、しっかりと歯を磨いた頃には、落ちるような眠りがおとずれる――深い、深い、本当の眠りが。
断絶されたような真っ暗な場所から――ゆるやかに――隅々へ、保たれた適正な温度が還ってゆく。やがて彼女の身の周りにおけるありとあらゆるものごとは確かな律動をしたがえ、着実に、有機的に機能していった。
陽を浴びて、彼女は目醒める。
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