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「誰かの代わりでいいよ?」
夕べのこと。ここで飲んだ帰り道、「もう少し飲まない?」って誘われてチヒロの家に初めて上がった。
チヒロは子猫がすり寄るように無邪気に私に体を寄せた。全部がとても自然なことだった。
最後ならもうそれでもいいって、心のどこかで何かが囁いてた。
「ねぇ、どうだった?夕べ」
「……リトマス試験紙」
「そう」
疑問符のない返答。特に説明は求めてこない。
でも自分を納得させたくて私は言葉を続ける。
「やっぱり自分がこっちだってことが、よくわかった」
「ふふ。アタシはわかってたけどね。こっち側だって。初めて会った時から。覚えてる?」
「覚えてる。チヒロの犬歯。ちっちゃくて尖ってて綺麗でかわいいって思った」
「犬歯って」何でそこ?と呟いて、またグラスを煽る。
チヒロはあの日、名乗る時に
「千尋の谷、のせんじんって書いてチヒロって言うの」と、やや薄い唇を芸術的な微笑みの形にして言った。
その時、その白い犬歯が覗いて、背筋がぞくんと震えた。今でもよく覚えている。
あれは何かの予感だったのかもしれないって、今は思う。
直弘と寝ることができても、自分のその対象が男じゃないこと。認めたくはなかった。直弘は、きっと違和感を覚えてた。
だから私達は男女の仲としては破局を迎えたし、それでも友情を育んだ……。
「お前が好きなのは、俺じゃないよな?」
本当に最後の最後に直弘が言って、私は黙って深く頷いた。
それでも……そうとは認めたくなかった。
私が彼女に抱いているのは、深い深い友情。
同性への親愛の情だと思い込もうとしていた。
そうやって自分に嘘をついていられる間に、彼女から離れようと思った。彼女を求めてしまう前に……。
チヒロは、愛しそうに私の髪を指で梳(す)く。
「今日は、辛かった?」
「……少しだけ」
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