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「後悔しないの?」
電話の向こうで奈々枝が言った。
新倉さんがその手を止める。
先に車を降りて、後部座席の私の方のドアを開けようとした新倉さんは、バッドタイミンングで鳴りだした電話に出た私を見て、微笑んで頷く。
どうぞ?私は待ちますから、と言うように。
私が片手で拝むようにすると、新倉さんはくすりと違った笑顔を見せた。
ここは海を見下ろす高台にあるホテルの駐車場。
新倉さんのコートの裾が風になびいている。
気まじめな性格をそのまま体現した黒くてちょっと堅そうな髪、がっしりとした体形。
変わらない。
いつもと同じ。
8年前、初めて会った日に頂いた名刺は今も私の財布の中にある。
表には「新倉正孝」所属。役職。裏に「趣味特技:古武術」とある。
名刺の裏を見て、驚いて興味を引かれた私に、彼は「結構、介護職にも役立つんですよ」と穏やかに笑った。
年齢が私よりも5つ年下でさらに驚くと「仕事柄、年齢は上に見られた方が得ですから」と悪戯な笑みも見せてくれた。
新倉さんが海を見ている。
景色を楽しんでいるようにも見えるけど、それはたぶん私への気遣いだろう。
車内からは手すりの向こうに海しか見えないけど、下の方には公園がある。
まだ、元気だった母の車いすを押して散歩したことがある。
あれはつい2週間前だった。
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