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「先生が今は落ち着いているとおっしゃってましたから、少しお休みなった方がいいですよ?」
私はここに留まると言うと新倉さんは心配そうに顔をしかめた。
「近くにきちんとしたホテルがありますよ?そちらにお泊りになったらいかがですか?今晩は私がこちらにおりますから」
「一人でいると……」
「古瀬さんに倒れられては」
「だったら」
何かあるといつも見せてくれる、その気遣わしげな顔は本物だよね?
優しい瞳に私を映したまま、新倉さんは「はい?」と言った。
「だったら……一緒にいて下さい。できれば、同じ部屋で」
そんなことを言うつもりはなかったはずなのに、思わずそう口走った。
新倉さんは、ほんの一瞬、何かを推し量るように、目を細めた。
病室の、カーテンで区切られた狭い空間で少しずつ、死に向かっている母の傍らで、私は何を言ってるんだろう……。
だけど、そのきっかけを与えたのは母の言葉だ。
私は母を見た。
顎が下がって僅かに口が開いている。
閉じた目は落ちくぼんでいた。
活発な精神活動があるようには、とても見えない。
周囲に気を配ることなんて、もうまったくできない状態だろう。
でも、聞こえているかもしれない。
「もしかしたら……もう、お会いする理由がなくなりますよね」
「ああ……」察したように小さく頷く。「では、そうしましょうか……」ごく小さな声で新倉さんはそう言った。
新倉さんが母の後見人なってから7年が経つ。
兄の晴信は、その頃、多額の借金を抱えていた。
そのためか同居する母の年金や貯金を勝手に使い込み、母の生活をひっ迫させていた。
母からも兄からもお金の無心がたび重なり、困り果てた私は、あちこちに相談していた。
市役所、保健所、法律相談、タウンページで探したクリニック、思いつくところすべてに。
兄の状況が普通とは思えなかった。
今まで知ってた兄とは別人のようだった。
言ってることも辻褄が合わなくて、行動にも整合性がなかった。
たぶん、精神的な病を患っている。
病院に行こうと言ったら余計に怒らせてしまって途方に暮れた。
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