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一五九〇年一月、相模国足柄山。
今にも雪を降らせそうな重い雲が空を覆っている。
木々の合間を縫って聞こえてくるのは、凄惨な男の悲鳴。
辺りは月明かりもない鬱蒼とした林が続いているが、降り積もった雪が存在を現し、闇を蒼白く裂いていた。
そんな不気味な雰囲気が漂う山林に動く陰が二つある。足下の雪も物ともせず歩む姿。ただし、平然と足を進めるのは一つだ。
その者、纏う衣装は闇に溶け込むような黒の忍装束。腰には白い布を捲き、一つにねじられた二本の紐が布の上を一巡し、背後で硬く結ばれている。腕には革篭手、足は膝下までの革靴。
「己から舞い込んでおきながら逃げるとは、笑止……」
感情の無い、低い声を漏らしながら、雪を踏み締め歩く。ゆっくりと、しかし堂々と。
彼の名は、風魔小太郎。
初代より小田原北条家に仕える忍衆──相州乱波、風魔一党の五代目頭領だ。
闇に映えるその髪は、輝きを持つ雪のような白銀。左で分けられた前髪が右目を僅かに隠し、黒い口布を覆ったその顔からは表情を窺うことはできない。しかしその瞳、深い蒼みの入った薄墨色の双眼には、確かな殺気が浮かんでいた。
「死への恐怖か、我を誘う罠か」
「こっ、小太郎様……」
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