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「でっかい所だろう? 父さんもここで野球を
するのが夢だったんだ」
まるで少年のように瞳を輝かせながらそう語る父の陽に焼けた横顔を、彼女は無言でみつめていた。
それは、母親の実家がある兵庫県西宮市に帰省した小学2年生の夏休み――
いつもは仕事で忙しい父に、“いい所”へ連れて行ってやると云われ、いとこたちとプールに行く約束を蹴ってまでついて来たというのに……
野球の“や”の字も知らない幼い彼女にとって、そこはただ暑くて、だだっ広いだけの無機質な器にすぎなかった。
「“甲子園”っていうんだ。 すごい球場だろう?」
「……こーしえん?」
名前を聞いても、いまいちぴんとこない。
何がどうすごいのかさっぱり判らない彼女は、いとこたちと行くはずだった流れるプールに想いを馳せていた。
――刹那、グラウンドをぐるりと囲むスタンドから、けたたましい声援と拍手が雪崩のように轟いた。
驚いた彼女は思わず両の掌で耳を覆う。
だが、その視線は躍動する球児たちに釘づけだった。
たったひとつの白球を投げる、打つ、追いかける――
ユニフォームを泥だらけにしながら必死でプレーする球児たちを、拭った汗と土が雑じりまっ黒になったその顔を――彼女は、“美しい”と感じていた。
「――すごいね、お父さん……」
彼女の頭の中からは、流れるプールの事などとうに消え去っていた。
たった数分で、“甲子園”という魔物は幼い彼女を虜にしてしまったのだ。
「そうだろう? これが“甲子園”なんだ」
「……あたしも…… ここでやきゅーしたいよ……」
ぽつりとつぶやいた彼女の言葉に、父は一瞬困ったような表情を浮かべたが、
「……そうだな。 そんな日がくるといいな……」
そう云って優しく微笑んだ。
のちに彼女が、
聖地を揺るがす存在になる事を予想だにせず――……
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