「わたし」

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仔犬が起きてしまわないように、そっとその場を離れて、わたしは居間を通って奥の部屋へ向かった。 ぶかぶかの畳。ささくれ立った部分も、煙草の火が落ちたのか焦げたような痕も、何かの染みもある。 この部屋へ入るのは初めてだ。こんな風になっていたのか。 いつから敷いてあるのか分からない湿気った布団に、中年の男が仰向けに寝ている。 弱々しい呼吸と臭気。わたしは顔をしかめた。 ……おまえは、死ぬんだ。誰にも看取られず、ひとりで死んでいくんだ。 中年の男が少し呻いた。 恐れも怒りも恨みも悲しみもわいてこない。ただ、憐れだ。 『その時』はもうすぐだ。わたしは再び風呂場に戻り、うずくまる仔犬に囁いた。 外へ出たら、もうここへは戻らない。 外へ出たら、もうここへは戻らない。 外へ出たら、もうここへは戻らない。 もう二度と戻らないで。 .
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