清掻き

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 気が付いた時にはもう、佳乃は此処にいた。吉原、松の位に位置する置き屋『赤松屋』。大概吉原にいる女子供は、地方の貧乏農家が食いぶちを減らそうと娘を女玄(ぜげん)に売ったり、落ちぶれた武家の娘が流れついてくる、というのがお定まりなのだが、佳乃は地方の農家に生まれた訳でも、武家の生まれでもない。 生まれも育ちも江戸は吉原。親は間夫に逃げられた女郎で、気が付いた時にゃ腹は立派に膨れて後の祭。泣く泣く産んだには産んだが、産後の肥立ちが悪く母はそのままぽっくりと逝ってしまうという、悲惨さ。 栓なく赤松屋は生まれたばかりの赤子を育てることに。女の赤子なら、ゆくゆくは女郎として育てあげようという腹積もりなのだから、佳乃は生まれながらにして、既に女郎となる道を歩んでいたのだ。 幸か不幸か、母譲りの器量を持った佳乃はいつの間にやら引っ込み禿(ひっこみかむろ)、部屋持ち、そうして気が付けばお職の花魅となっていた。 こんな風に気が付けば吉原にいて、気が付けば花魅になっている自分は、あと数年もすれば気が付く間もなくあの世に逝ってしまっているのだろうと、佳乃は常々思っている。 兎にも角にも、どうも自分の人生はままならない。じゃあ、他の朋輩連中が思ったような人生を生きているか、と聞かれれば、どれも似たりよったりなのだけれど、それでも胸中に翻かまる思いは消えない。 もし、本当にそれがあるなら、自分はまるで桜の根本に埋(うず)まった死体だ。 哭くことも、逃げることもできず。ただ柵(しがらみ)に絡めとられて血も何もかも吸いとられていくばかり。 最早流す涙も渇いて尽きてしまった。 二階の表通りに位置するこの部屋。 障子の向こう側、目の前にはこの季節にだけ植えられた桜が、その豊かな花を風に遊ばせて揺らめいている。 ぱっと咲いてぱっと散る。 それがこの江戸の『粋』というものらしい。 駄目だ。余計に気が減入る。 思わず目を臥せた。 行こう。もう夜見世が始まる。そう障子に手をかけた時、ふと桜の下の人に目が留まった。 何ということはない、ここではよく見掛ける遊客の一人だ。でも目が離せない。誘われるがまま食い入るように見つめる内、気付けば障子の縁に身を乗り出していた。 その瞬間。 「…!!」 目があった。
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