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私は足を止めた。
人里から離れて、辺りにはなにもない。家どころか立木の一本も見当たらない。風は優しく西から吹いて、下を向く私の髪をさらさらと撫でた。
同じくして草原が声を上げる。地からはい上がる小さな大勢のざわめき。
そんな中、膝に手をついて息を上げる私がいた。
「なんてね」
呟いた言葉に舌を出す。
帝王なら走ったくらいで息を上げるな、みっともない。そう思いながら背中から倒れ込んだ。かさ、と乾いた声が耳元で囁かれる。
はあはあと澄んだ空に吐息が消えた。この瞬間が一番気持ちいい。こんなに走ることなんてないんだから。いつも正している襟元も、人目を気にしなくていい今なら開(はだ)けていても咎められない。咎める人もいないのだからこれもまた良い。
ここでなら自由でいられる。
やがて呼吸も整い、草原のざわめきだけが夜を包み込む。今夜の月は満ちていて眩しいくらいに光っていた。僅かに浮かぶ雲を照らして、影をそれに浮かばせる。幻想のような、目の前にある現実。一瞬たりとも、幻想のように消えてしまうことのない現実。
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