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「では、これで引き継ぎ完了ってことで。」
「…ああ。最後まで気を抜くなよ。」
「そんなこと言われなくても分かってますって。」
上流階級の老紳士に扮した結城中佐の言葉に、真木は苦笑で返す。
結城は、それに『要らぬ言葉だったな』と言うように肩をすくめて見せた。
「それじゃ、お先に。」
真木は結城の仕草が妙に可笑しくて、今度は笑った。
そして、自分のコーヒー代を置いて席を立った。
喫茶店の外に出れば、なんとも気持ちの良い青空が広がっていた。
真木克彦は、ナチス政権下のドイツでの一年間の任務をもうすぐ終わらせようとしていた。
引き継ぎも済み、後はドイツ各地に散らばる協力者の後処理だけだ。
次の任務は今回以上にスリリングだといいけど、などと思いながら真木は座り心地の良い個室のソファに身を沈めた。
ベルリンまでは後少し時間がある。
うたた寝くらいはしてもいいだろう。
そう思った時には、真木は車窓から柔らかく降り注ぐ陽光に誘われて半分夢の中だった。
「……………。」
真木は、目の前の光景をすぐには受け入れられなかった。
柔らかい陽光で明るかった室内は今や闇の中だったし、天井が潰れ、座り心地の良いソファもめちゃくちゃだ。
周りからは悲鳴や泣き声、苦しげな呻き声が盛んに聞こえてくる。
そして何より受け入れたくなかったのは―
己の身に起きた惨状だった。
真木の左横腹を、列車の折れた図太い鉄枠が貫いていた。
大きく開いた傷口からは、止めどなく血が流れている。
「…あ~あ…。
これはどう足掻いても無駄ってやつだな…。」
真木は、冷静にもうすぐやって来る早すぎる人生の終幕を受け入れた。
この惨状から察するに、恐らく列車同士の正面衝突だろう。
原因は…戦争中の国ではありふれた、日常の点検を怠った結果の信号機の故障といったところか。
「やれやれ…。結城、中佐に引き継ぎが終わったと思ったら、このザマかよ…。まったく…、運が良いんだか悪いんだか…。」
不思議と痛みは全く感じなかった。
あぁ、アドレナリンのせいか-刻々と薄れていく意識の中で考える。
もうすぐ自分が死ねば、間違いなくアプヴェーアに日本のスパイだとバレてしまう。
そうなったら、アプヴェーアは必死になって自分の痕跡を追うに決まっている。
だが、絶対に奴らは何の収穫も得られない。
任務の失敗による損失を、俺は最小限にとどめることが出来たという訳だ。
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