第36章

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遠くの廊下で、階段を降りる足跡が響いている。 笑い声と、廊下でボールを弾ませる音。 その声が遠のくと、今日子先生は再び口を開いた。 「高校生の頃だったんだけど、…好きになった人が、悪い男でね。 …まあ、…簡単に言えば、…お金で売られた、ってところかな。 けっこうませてる子供だったけど、さすがに、…ちょっと、精神的に参っちゃって。」 目を伏せた先生は、しばらく当時のことを思い出しているようだった。 先生の過去を初めて知った俺は、…自分が聞いていい話なのかどうか、居心地の悪さを感じながら、先生の顔を黙って見つめていた。 「それで、…はじめて、カウンセリングに通い始めたの。 一番はじめのきっかけは、そこかな。」 「…そのカウンセラーが、いい先生だったんですか?」 「その逆。」 今日子先生は困ったように顔をしかめた。 「逆転移、っていってね。…カウンセラーが、患者に個人的感情を持つ、っていう現象があるんだけど。 カウンセリングのたびに、好きだ好きだって連呼するし、体を触ってくるし、最後にはストーカーまがいのことされて、大騒ぎになったのよ。」 「…最悪…。」 「でしょ?ホント、最悪。」 先生はふふ、と笑って、 「最悪なカウンセラーに当たった事で、わたしの心にある思いが芽生えたの。 こんな奴より、私の方が、絶対に人の心に寄り添える、って。 わたしこそ、カウンセラーになるべきなんじゃないか、って。 …まあ、実際は、そんなに簡単な事じゃないのよ。 今思えばね。それは奢りに過ぎなかったって分かるけど、 …でも、あの時の、『辛い思いをした自分なら、傷ついた人の気持ちがわかるはずだ。』っていう、熱い想いみたいなものが、 未だにわたしの原動力になってるかな、とは思う。」
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