1.順子の場合

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 一瞬上がった熱は、突然苦い記憶を引っ張り出した。小学生の時。中学の時。私は……クラスでずっと無視されて来た。存在を抹殺される一方で、余計なちょっかいばかりを出され続けていた。細かいことは思い出したくない。壊されたノート。汚された上履き。落書きで元の文字が読めなくなっているプリント。「私の分だけ」なくなって、先生に「提出してないのはお前だけだ」などと怒られる提出物。  そのどろどろした記憶は、熱を、燻る嫌悪感に火を点けるための道具にしようとする。 「……なんの、冗談ですか」  冷えた声になってしまった。先輩は微笑みの裏にほんのりと苦さを宿した。 「冗談のつもりはないよ」 「……」  私は答えられずにいる。  その後に続いた沈黙が長かったのか短かったのか、私にはよく分からなかった。先輩は何かを考えていたようにも見えた。  そして。何かの結論が出たのか、軽く自分に頷いて。 「──今は、まだ、俺の気持ちは、言わないでおくね」  また笑う。ふわんとした笑顔で。先輩が自分を呼ぶ一人称に「俺」を使っているのに内心、少しだけ驚いた。驚いた後にやっと、言葉が脳に辿り着いた。  気持ちは言わない? 「重荷に感じるかも、知れないし。だから、……三谷さんは、別に、俺のことをどう思ってくれてもいい。同じ気持ちになって欲しいとも、言わないから。ただ、──」  それは。それは、言外に『好き』だと言っているような気がする。そして、私が先輩のことを好きになってくれなくてもいいと、そう言っているように聞こえる。 「放課後、図書室の終了時間までじゃなくて、もう少し、長い時間一緒にいられないかなって。だから、……気持ちは、言わない。三谷さんも気にしなくていい。ただ、」  彼は大袈裟に深呼吸する。その吐く息ははっきりと震えていた。 「──付き合って、欲しいなって。もう少しだけ、ここ以外で時間を共有出来る関係に、なれないかなって」  そんなはず、ないじゃない。ずっと、人付き合いがヘタで、誰かと「関係」を結ぶとすればそれは「いじめられる」ことでしか接触なんてなかったような私が。こんな優しい人に、そんな風に、思われるはずなんてないじゃない。  過去からずうっと熟成され続けた『私』は、先輩の笑顔から目を逸らさせようとする。信じていいはずがない。こんなこと。
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