屁は臭い、だから面白い。

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  「人って…難しい」 「自業自得だろ」 「私ね、人生はハードモードでプレイしたいの」 「だろうな」 「でもね、イージーモードにはイージーモードの楽しみ方ってあると思うわけ」 「…?」 「あなたは馬鹿なの?」 「携帯返せ」 俺の手はあっさりかわされた…。 話がまるで進まない。 会話は噛み合わない。 携帯電話もない。 では今何ができるのか。 ――それは"祈り" 太古の昔から人類が行なってきたまじないの一つ。 人は謎の壁にぶつかりそれが手に終えなくなった時、神に祈りを捧げ教えを受けた。 遥か何千年も昔から続くそれは、ついに潜在能力として一部の人間に与えられ、日本では卑弥呼や陰陽師などが特殊な発展を遂げてみせた。 それは人類の未知なる力であり、"不思議"という言葉によって以後表現され続けることになる。 しかし、そんな機会原因論は科学技術の進歩と人類の飽くなき探求心によって、より現実的な形あるものへと変えられていく。 例えば一連の能力を人類の新たな進化として見た場合、 多様性生物学的な見解をするならば、C.ダーウィンの自然選択説により説明することはできないだろうか。 自然選択説とは全ての生き物は自然により選別,淘汰されることによって生き残り、その結果が進化であるという考え方である。 これによればそれまでのある環境が変化してしまった時、ある個体群の中でたまたまそれに適応した個体が誕生したとすると、それからはその性質を持ち合わせた個体が強く生き残っていく。 最終的に古い個体は絶滅し、新たな個体がまた個体群をつくるのだ。 これにより進化した個体のみが繁殖していく。 要は、卑弥呼や陰陽師の能力が危機的展開に適応した人類の進化ならば、現代に生きる我々は進化した個体である故に、その潜在的な能力を持っているとは考えられないか。 先に結論を言おう、持っているのだ。 その"祈り"は形を変えて脈々と受け継がれているのだ。 自然選択的に、全ての日本人に。 そしてそれは誰もが扱えるまでに進化している。 なら今こそ、その真価を見せる時ではなかろうか…! 「普通の会話をさせて下さい!」 俺は、土下座をした。  
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