ありす

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ありす

 アリスはお腹が空いていた。  自宅の冷蔵庫の中には調味料とミネラルウォーターくらいしか存在せず、缶詰や乾麺などのストックは既に食べきっている上、小麦粉すら残されていないという侘しさ溢れる状況が訪れていた。  昨日の朝から固形物を何も食べていない彼女はだらしなく椅子にもたれかかり、ただただぼーっとし続けていたのであった。動くとお腹が減るので。  何かしら買ってくれば良いのかもしれないが、財布の中には50円しかないという厳しい現実が存在していた。電子マネーも今日までにそれなりに使ってしまっていたので、次回の料金支払日に消える額を増やしたくない、いや、でも、背に腹はかえられぬというからなー、あ、でも、やはり……などという葛藤の末に封印。貯金箱は無の空間を抱えてその存在意義を失った状態で棚に鎮座している。  本来ならこの時間帯は喫茶店でバイトをしているのだが、不意に店主夫婦が旅行に行くことに決めたので数日間休業中となるに従いその間は休暇と相成り、賄いという栄養摂取の機会は失われることとなった。また、バイト代は明日にならないと銀行に振り込まれない。 「…腹へった」  虚ろな目は中空を映し、感情のほぼこめられていない虚無的つぶやきが漏れる。  太陽はそんなアリスを気にすることなく世界を朗らかに照らしていた。普段ならば、ぽかぽかとしたその陽気は知らず知らずのうちに彼女にまとわりつく睡魔の力を増強させて夢の世界へ陥らせている筈だが、今回ばかりは空腹の効果が抜群なのか役割を果たすことなく終わりそうであった。 「大変、大変!」  不意に彼女の背後の方から声が聞こえたかと思うと、騒がしく駆ける足音がそれに続いた。 「大変、大変!遅れちゃう!」  声の主は焦った様子でアリスの横を駆け去っていく。 「…?」  アリスは駆け去っていく後ろ姿を見やり、絶句した。 「うさぎ? 着ぐるみ? でも、チャックついてないみたいだし…」  遠ざかっていくウサギらしき物体、混乱した頭でそれを見送る彼女の中で一つの感情が沸き上がってきた。  野性時代からヒトが有してきた感情。それは余りにも純粋無垢な欲望であった。 「…腹へった」  食欲がアリスの思考を占め尽した。目は爛々と輝き、遠ざかる獲物を捉え続けている。口には唾液が溜まりはじめた。  アリスはゆっくりと立ち上がった。
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