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淡い香りを漂わせた桜の花も咲き終わり、木には青葉が茂る。心地よいくらいの生ぬるい穏やかな風が吹き、少し強くなった陽の光が降り注ぐ、初夏の季節となった。
その日、何だか町はいつもより騒がしかった。
それは、この阿些(あさ)藩の藩主、桂川成重(なりしげ)の一番目の子で嫡男である、まだ若き芦成(あしなり)が農村の巡視という事で少数の側近や護衛を連れて町を通るからだ。
町の人々は、城の役人など名ぐらいしか知らない。
物見遊山や興味本位に見物に来る人々がほとんどである。
しかし、賑わう町から少し離れ、辺りに同じような武家の屋敷が幾つか並ぶ中にある樫原の屋敷では、そのような騒がしさは気配も感じない。ただ、父親からの話でそのことを知っているだけだ。
咲は丁度その日、生け花の稽古があった。
咲の家は、代々阿些藩に仕える樫原の武士の家だ。家に小者や女中を八名ほど抱え、父であるの働きにより、それなりの暮らしが出来る。
しかし、咲の家には母親がいない。咲がまだ三つ四つの頃、流行り病で亡くなったのだ。
それからは、乳母の吉乃が母親のようなものであった。
「咲、そろそろ稽古へ参る刻限ではないのか?」
咲は庭で、咲と歳も近い、女中の一人である弥也(やや)のする洗濯を手伝っていた。不意に、五つ年上であるただ一人の兄である吉慈に声をかけられて、咲は手を止め立ち上がった。
弥也と咲は、いわばお互い友のような存在で、弥也が十で樫原の家へ女中として来たときから親しくしていた。
「もうさような刻限になりますか」
「遅れては叱られるぞ。今日は町が人々で賑わっているようだから、気をつけて行け。人の波に流されて迷うなよ」
からかう様な笑みを浮かべる吉慈に、咲も笑顔で答えた。
「さようなことはありません」
咲がたすき掛けを外すと、洗濯の手を止めて二人を見ていた弥也が見計らったようにふと立ち上がった。
咲に付き添うためだ。
「咲様、只今用意致しますので」
小柄な弥也の、頭に挿した櫛が眩しい陽光に光った。
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