偶然の

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そう男が護衛を睨むと、護衛の男は慌てた様子で列へ戻って行った。 何事もなかったように再び進み出す一行をよそに、咲の目の前はいまだに緊迫していた。咲を庇ったのはいいものの、その男が咲のそばへ来てしゃがみこみ、声をかけたためだ。 人々も少しずつ賑やかになっていたが、咲の周りだけは静かなままであった。 「無礼な真似をすまない。怪我は無いか」 思いもかけないその優しげな声に、咲は驚いて恐る恐るその男の顔を見上げた。 その男は、鋭く真っ直ぐな瞳が印象的な、まだ若い男だった。いかにも高貴な藍色の着物を纏っている。 顔はといえば、思わず見とれてしまうような、切れ長の目にすっとした端正な顔立ちだ。そして、結った漆黒の長い髪の毛。 この人をどこかで見たような気がする、と咲には、何となく見覚えがあった。 記憶を辿ると、ぼんやりとではあるが咲の記憶の中にその男はいた。 ああ、もしかしてあの時の! 咲はすぐに思い出すことが出来た。 偶然にも、その男は幾月か前に咲が雨の中転んだ時、下駄を直したりと咲に世話を焼いたあの人物だったのだ。 咲はそのとき顔をはっきりと見ていたわけではなかったが、そのつややかな長い髪の毛と雰囲気は覚えていた。 あのときの人に違いない、と確信する。 そうか、この人はお城のお役人だったのか。それも、側近だとは思いもしなかった。 驚きのあまり、呆然と目を見開いたまま、咲はようやく言葉を発した。しかし、それはさっきのようにか細く、震えてはおらず、ただ、心ここにあらずといったような気のない口調であった。 「……た、助けていただき、どうも有り難うございます……」 こんな偶然があろうか。 そう咲が思った頃には、目に溜まっていた涙も引いていた。 男は、咲の無事を知ると同時に、咲の前へ散らばった数輪の花へとそれとなく目を移す。 「気をつけろ。此度(こたび)はたまたま俺が居合わせただけの話。次はない」
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