偶然の

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「用はそれだけだ。手間をとらせたな」 「わざわざ有り難うございました」 咲は頭を下げる。そして、そのまま、 「改めてお礼を申すのが遅くなって申し訳ございません」 と、庇ってもらったお礼を続けて述べる。 言葉では足りないくらいのことをしてもらった。本当に有り難い。 しかし、何故助けてくれたのだろう。 言い終わって頭を上げたとき、咲は一つ聞いた。 「でも何故、助けてくださったのでしょうか」 その男は整然としたまま、口だけを動かす。 「見れば、悪人でないことくらいわかる。人波に揉まれたのだろう」 咲は目を見張るが、男はそれを見てにわかに呆れたようだった。 「何故それを?」 「今日のようなことは一度や二度ではない」 ああ、そうか、と納得する。見ていたわけではなくても、それくらい察したのだ。 幼稚なことを聞いてしまった気がして、咲は自身を恥じた。 それに、と男は続ける。 「お主はよく転ぶようだ」 まるで以前もその姿を見たかのような物言いに、咲は驚いた。 まさか、あのときのことを彼も憶えているのではないか、と思ったからだ。 しかし、それを確かめようとしたとき、その男はあっさりと別れを告げる。 「それではな」 出鼻をくじかれ、そのまま口にしようとしたことを飲みこみ、咲は慌てて、もう一つ聞きたいことがあったことを思い出した。 「あっ、もう一つだけ聞いてもよろしいでしょうか?」 「手短に」 踵を返そうとしたその男は、再び咲へつま先を向ける。 咲は、はやる気持ちを抑える。 「失礼だとは思うのですが、その……あなた様のお名前を」 語尾は咲ののどで消えた。 言葉に自信がなかったのである。
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