28人が本棚に入れています
本棚に追加
「用はそれだけだ。手間をとらせたな」
「わざわざ有り難うございました」
咲は頭を下げる。そして、そのまま、
「改めてお礼を申すのが遅くなって申し訳ございません」
と、庇ってもらったお礼を続けて述べる。
言葉では足りないくらいのことをしてもらった。本当に有り難い。
しかし、何故助けてくれたのだろう。
言い終わって頭を上げたとき、咲は一つ聞いた。
「でも何故、助けてくださったのでしょうか」
その男は整然としたまま、口だけを動かす。
「見れば、悪人でないことくらいわかる。人波に揉まれたのだろう」
咲は目を見張るが、男はそれを見てにわかに呆れたようだった。
「何故それを?」
「今日のようなことは一度や二度ではない」
ああ、そうか、と納得する。見ていたわけではなくても、それくらい察したのだ。
幼稚なことを聞いてしまった気がして、咲は自身を恥じた。
それに、と男は続ける。
「お主はよく転ぶようだ」
まるで以前もその姿を見たかのような物言いに、咲は驚いた。
まさか、あのときのことを彼も憶えているのではないか、と思ったからだ。
しかし、それを確かめようとしたとき、その男はあっさりと別れを告げる。
「それではな」
出鼻をくじかれ、そのまま口にしようとしたことを飲みこみ、咲は慌てて、もう一つ聞きたいことがあったことを思い出した。
「あっ、もう一つだけ聞いてもよろしいでしょうか?」
「手短に」
踵を返そうとしたその男は、再び咲へつま先を向ける。
咲は、はやる気持ちを抑える。
「失礼だとは思うのですが、その……あなた様のお名前を」
語尾は咲ののどで消えた。
言葉に自信がなかったのである。
最初のコメントを投稿しよう!