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男は構わず、淡々と答えた。
「……それがしは、斗鬼泰之助(ときやすのすけ)と申す者」
斗鬼泰之助様と言うのか、と咲はその名を心の中で復唱する。
質問に答え今にも去ろうとする泰之助に、咲は精一杯の感謝の気持ちを込め、いま一度頭を下げた。
「本当に有り難うございました。このご恩は忘れません」
「……名は何という」
泰之助は、ぼそりと無愛想にそう聞いた。
思いがけない言葉を耳にし咲は一瞬戸惑いつつ、自然、弱々しげな声で答えた。
「樫原咲と申します」
自身も名を聞かれるとは思わなかったのだ。名を聞いたところで、もう会うことはないのかもしれないが。
泰之助は、そうか、とだけ言う。そして、再び別れを告げ、颯爽とその場を去った。
あっという間にその姿は小さくなる。
顔を上げた咲はその姿を見ながら、はっとする。
あの方が私を憶えているかを確かめたところで、さっき私は何をしたかったのだろうか。一体何を気にしているのだろう。
憶えていようといまいと、どちらでもいいことではないか。
自身の行動にそう不思議を感じ、あの方に会うことはもう二度とないのだろうか、とどこか寂しささえ覚える。
何だろうか。
そう靄(もや)のように曇った気持ちを抱きつつ、咲は早足に大通りへと戻る。
すると、地に置いたままだった、ぼろぼろになった咲の花を腕にする少女が、辺りを忙(せわ)しなくうろうろとしている。
咲は、見覚えがあった。
そして、思い切って声をかける。
「弥也?」
途端、少女は振り向いて、咲の元へ駆け寄った。
やはりその少女は、弥也だったのだ。
よかった、と咲は心から安堵する。
再会できたのだ。
「咲様!」
弥也は涙を浮かべ、ほっとした様子で咲の無事を確かめる。そして、しきりに咲へ謝る。
咲は、申し訳ない気持ちになった。
「私がはぐれたばっかりに、申し訳ございません。お怪我はないですか?」
「こちらこそごめんなさい」
弥也は、その言葉を聞くと、無言で何度か首を横に振った。
「帰りましょう、きっと家の者が心配しております」
二人は、再会できた喜びを笑顔で示し、家路についた。
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