序章 雨と桜

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雨が降っていた。 もう春だ。 しかし陽気な天気は一変、冬に逆戻った様に外は底冷えしている。 吐く息が白い。 火鉢のあった部屋から出てきたばかりだというのに、既に指先もかじかんでいた。 「兄上、それでは行って参ります」 「史郎介でも弥也でも連れて行けば良いではないか」 「ですから何度も言っている様に、一人が良い気分なのです」 吉慈(きちじ)は返事の代わりに、呆れた様なため息をついた。 「わかった、わかった。好きにしろ」 「はい」 咲(さく)は唐傘を手に持つと、内玄関の引き戸を引いた。 生け花の稽古の為、師の家まで少し遠く歩く。 白い息を吐きながら、傘をさし、雨粒がばらばらと傘に跳ねる音を聴いていた。 少しすると、いつも賑やかな町屋の通りに出て、雨でも寒くても賑やかな人々の声がする。 地面に水溜まりが出来ても、お構い無しに走る町飛脚の鈴の音なんかも聴こえた。 雨の日は嫌いじゃない。 雨の日の色々な音は、妙に楽しいから。 そんな音を聴きながら、咲は普段の道とは違う道で稽古に向かう。 何か用があったわけではないが、見慣れた景色を見るより、たまには新鮮な景色を見たいという、ふとした思いつきからだった。 時にはまだ余裕があるから。 と、散策する楽しさを胸に、一度深呼吸すると、咲は足取りを軽やかに再び歩みを進めた。 そうして一番賑やかな通りを抜けて暫く、商家の並ぶ通りの裏手に流れる小さな川沿いを歩いていた時、ふっとおもみむろに咲の目の前に落ちてくるものがあった。 花びら…? 地に目を落とすと、真白に近い淡い桃色の花びらが土に張り付いていた。
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