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ふと顔を上げると、川岸には大きな桜の木があり、その細い枝々が倒れる様に若干、道にはみ出てきている。
暫くその桜の木は一列に続いている。
この道、桜の木があったんだ。
確か、以前にこの道を通った時は冬だったはずだから、気づかなかったのかもしれない。
蕾を開いて、まだ枝に花がつき始めたばかりの木はもの寂しい感じはするが、雨に濡れているせいか、情緒を感じる。
思わず、咲は顔を上げたまま立ち止まり見とれていた。
ややして、ふと前に視線を戻すと、なんと同じ様なことをしている人物が近くにいたことに気づく。
その人は傘もささず笠を被り、紺の羽織と薄墨色の袴を纏い、どうやら刀を差している。
笠から出た、束ねた漆黒の長い髪の毛は冷たいそよ風に凪ぐ。
見たところ、どこかの若侍の様だ。
それも、咲より二つ三つくらいしか歳が上に見えない。
あの人も、綺麗だと思ったのだろうか。
しかし傘もささず笠だけで立ち止まっていたら、着物も濡れ、この寒さもあり、風邪を引いてしまうのではないかと思う。
そもそも、何故傘をさしていないのだろう?
見ず知らずの私が口を挟んで良いことではないかもしれないけど…。
そんなことを考えながら、咲はその人物に近寄っていこうとした。
出来ることなら、途中までこの傘に入ってほしいと思ったのだ。
だがその踏み出した時、ふっと何かにつまずき前に転んでしまった。
「あっ!」
膝をついた為、着物には一瞬にして泥の染みが広がり、はずみに傘も手離して、近くに転がった。
痛いと言うより、冷たい。
容赦なく落ちてくる雨の雫は冷たく、寒い。
はっとして周囲を見回すが、雨のせいか辺りに人は丁度いない様だ。
朝から雨が降っているため、舟が岸に出入りすることもなく船頭の姿もない。
しかし、誰も見てはいなかったことに安堵して慌てて立ち上がろうとすれば、おもむろに声が降ってきた。
「手を」
その、凛々しく落ち着いた聞き慣れない声に顔を上げると、目の前には、咲が声をかけようとした人物が立っていた。
笠で隠れて顔はあまりよく見えないが、格好からして確かに咲が声をかけようとした人物だった。
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