序章 雨と桜

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その人が、手を差し伸べている。痩せた、けれどしっかりとした、咲より大きい手だった。 声と姿からして、やはり咲より幾つか歳上程の若者らしい。 「えっ、あっ、有難うございます…」 目の前にいて手を差し伸べているということは、恐らく彼は転んだところを見ていたのだろう。 咲は一気に恥ずかしくなって、顔も上げられず下を向いたまま、目の前の人の手を支えに立ち上がった。 着物が酷く汚れてしまったけど、それよりも今は恥ずかしいというか、自分が情けないというか……。 頬が熱を持ったのがわかった。 「さて、怪我は」 「…いいえ、何も」 きっと今の自分を鏡で見たら、顔も耳も一気に赤く染まっていることだろう。そう思うと余計に恥ずかしい。 「では、足は」 足? そう言われて初めて、咲は足に何があるのだろうと目をやる。すると、どうやら右足の下駄の鼻緒が転んだ拍子に抜けたらしく、右足に下駄はなく、後ろに転がっていた。 目の前のことで頭がいっぱいなり、片足が素で地についていることにも気づかなかったようだ。 「あ、鼻緒が……」 白かった足袋は両足とも濡れて、泥で汚れている。敢えて普段とは違う道を選んだことが仇(あだ)になったみたいだ、とそこで思う。 咲は内心深くため息をつきながら、転がった下駄を拾いに行こうとした。
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