序章 雨と桜

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「よい、動くな」 笠を被ったその人物はすっと咲の後ろへ行き、雨で冷たくなった下駄と傘を拾った。そして、再び咲に手を差し伸べると、首でくいと、 「雨の凌げる所へ」 とそばにあった商家の軒下の方を指した。 咲は「はい」と従って、手をとり軒下へ歩く。 雨水の染み込んだ足袋の冷たさが足に伝わり、足は冷えきっている。思わず踏んだ水たまりが今になって堪(こた)える。 そして軒下へ来ると、その人物はしゃがみこみ、膝に咲の片足を乗せるよう指示しつつ慣れた手つきで下駄を直し始めた。 ただ通りすがっただけの人にこれ以上迷惑をかけられない。 咲は、彼の膝に足を乗せることをためらった。 「あのっ、これ以上ご迷惑をおかけ出来ません、おやめくださいませ。泥で汚れていますし、それでは貴方様のお着物が汚れてしまいます」 すると、ふと手を止め一時(いっとき)咲を見上げたその人物の顔が、ようやく露わになった。 「気にするな。それに、そのままではあをんたがまずいだろう。遠慮はいらぬ」 しかし、咲は思わず見入っていた。 今は再び笠に隠れて見えないが、一時でも笠からのぞいたその顔に。 切れ長の目に、すっとした顔立ち、まるでどこか名のある所の役者のようだ。凛とした風情も相まって、まさに容姿端麗というものだった。 咲は返事をすることを忘れて、ただ残像として残る彼の姿を思い出していた。 ふと、彼が懐から出した手拭いを細長く破るのが目に入った時、ようやくそこで咲は我に返る。 いけない! 「あの、本当に平気にございますゆえ!」 しかし、手拭いを破るその手は止まらず、片手で膝を軽く叩いて、咲の片足を乗せるよう再び促す。 「最早諦めたらどうだ」 と、どこか力のある言葉と、手際のよい所作を見て、咲は幾分ためらったが結局折れた。 せっかく親切にしてくれてるのだから、ありがたく受け取っておこう。あまり固辞しても失礼だ。 それに、やはり本音を言えばこうして親切に気にかけてもらうのは嬉しい。 かような時、誰かがそばにいると落ち着くものだ。 「有り難うございます…」 咲はひっそりと、足元に出された膝に片足を乗せる。 咲の心は、情けなさやありがたさでいっぱいだった。 「出来たぞ」
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