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鼻緒の色がすっかり変わったその下駄にそろりと足を通す。
まだほのかに彼の手の温もりが残っていて、冷えた足にじんわり染みる。
「本当に有り難うございます」
その人物は立ち上がりつつ咲の身なりを一通り見て、言う。
「どこかへ用でもあったのだろうが、今は一度屋敷へ戻った方が良い」
そう言われてそこで、咲はようやく身なりのことにも再び気がまわる。
着物の裾を見れば、そこかしこに薄茶に泥水が染み込み、着物は重くなっていた。
とてもこのまま稽古に向かえる姿ではない。加えて、その染み込んだ水の冷たさが体にも伝わって、どんどん体の温かさが無くなっていく。
凍えるほどに寒かった。
「はい、そうします。これではどうにもお稽古には行けませんので」
苦笑いを浮かべて言うが、彼の表情は笠に隠れてあまり見えない。けれど、おもむろに羽織を脱ぐと、咲に向けて差し出した。
まさか、使え、ということだろうか。
寒いのは同じだろうに。
「あの、受け取れません」
「そのままでは人目につくぞ」
確かにその通りだとは思うけど、と咲は心の中で呟く。
「貴方様が風邪を引いてしまっては大変にございます、どうか私のことはお気になさらず」
「俺とあんたは違う。同じにしてもらっては困る」
咲は羽織をなかなか受け取らないが、向こうも譲らない。
少し無愛想な言い方だというのに、反してその所作は優しい。こんな人は初めてだ、と咲は内心考えていた。
「多少濡れてしまっているが、何もないよりましだろう」
「見ず知らずの方にそこまでしていただくなんて、受け取れません」
と、不意に彼は浅くため息をつく。
所詮痩せ我慢だ、と呆れられたのだろうか。
そう思っていると、彼は強引に羽織を咲に押しつける形で手渡す。
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