序章 雨と桜

8/9

28人が本棚に入れています
本棚に追加
/288ページ
手にした温い羽織に手の冷たさがにわかに和らぎ、ほっとする自分がいた。 遠慮しようにも、受け取らざるを得なくなり、咲はぺこりと頭を下げてからその羽織をようやく肩に掛ける。 傘をしていなかった肩の所が濡れてはいたが、やはり彼が言うように何も無いより断然ましだった。 温かい。 けれど、どうにも彼が寒そうで、感謝の気持ちと共に申し訳ない気持ちも咲の心に浮かぶ。 「よければ、近くまで送って行くが」 それはつまり、付き添ってきてくれるということ…? 咲は慌てて首を振った。 「いえ、滅相もございません!一人でも大丈夫にございます。これ以上お気になさらないでくださいませ」 これ以上迷惑をかけるわけにはいかないし、彼の方が随分と歩くはめになってしまう。 彼の予定だってあるだろうに。 それでもその人物は思案顔で、咲を案じているみたいだ。 「……」 「大丈夫です」 更に一言だけ言うと、見ず知らずの彼も『うん』と頷くしかない様で、気持ちを切り替えた様に一言返した。 「…なら、良い。次は気をつけるようにな」 と、まもなく。 そう、笠から笑みにもとれる柔らかな表情をちらりと覗かせ、その人物は軒下から雨の中へ飛び出した。 行ってしまう! 咲は咄嗟に、声を張った。 「あ、あの!よろしければせめてお名前を教えてくださいませ!改めてお礼がしとうございます」 すると彼は立ち止まり、咲を振り返って、 「礼などいらぬ。名乗る程の者でもないゆえ」 とだけ言うと、それは疾風(はやて)のように、再び雨の中を走り出す。 その姿はあっという間に小さくなった。 既に引き止めることも叶わず、咲は何も彼については得られなかった。 行ってしまわれた。 何もわからないまま。 でも、有り難いことだった、と咲は思い出す。 転んだうえに雨に濡れて、足は濡れた足袋が泥水を吸って酷(ひど)く重くなり、体中が震え上がるほど寒かった。 彼の気持ちは、全て嬉しかった。 そのおかげか、咲の心はほっこりと温かくなっていたのだった。
/288ページ

最初のコメントを投稿しよう!

28人が本棚に入れています
本棚に追加