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ふ、と。
一瞬、目の前が霞んだ気がして、世界の音が遠退く。
“―――ごめん”
ああ、バカだ、私。
分かってたつもりだったのに。
私よりも―――高雄は、甘い香りの人を選ぶんだって。
その決定打を突き付けられたくなくて、今までやって来たのに。
「……ごめん、お嬢。
出来るだけすぐに戻るから……」
高雄が、霞んで見える。
高雄の声が、どこか遠い。
「今は、行かせて」
苦しそうとか、申し訳なさそうとか、やりきれないとか。
色んな感情を押し殺したように、高雄はそう言って、私の前から動いた。
高雄がいなくなった空間を涙を流しながら見つめ続けていた私の背中から、バタン、と勝手口のドアが閉められる音。
――そして、携帯の着信音が、途切れた。
「………」
しぃん……と、静まりかえる部屋。
この空間だけが日常から離れ、ぽっかりと深い溝に落ちたみたいだ。
私の心と一緒に。
“君と加賀の恋には、未来がない”
ふいに、向上先生の言葉が、頭を過った。
“加賀にとって、簡単に嘘をつけるくらいちっぽけな存在なんだよ”
“次に、加賀が夜出掛けることがあれば――”
そして。
私の部屋の引き出しには、――彼からもらった名刺が、じっと出番を待っている。
“―――電話して”
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