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「エルザ」
ガチャッ、背後の扉が開いて手にゴミ袋を抱えたスタッフさんが声をかけてきた。それにボーイは振り向く、涙を指で拭いながら。
「あー?」
「なに?おまえ泣いてんの?…おまえ、何したんだよ。店長がさっきから探してるぜ」
「そう。じゃ、行かなきゃ…。あ、そーだ」
はい、とボーイがポケットから取りだしたのは、くしゃくしゃになったチケット3枚。
「これ、あげる」
とりあえず流れに圧されて、そのチケットを受け取った。アルファベットが沢山ひしめいている。
「ライヴのチケット。クォークに会えるよ。じゃーね」
立ち上がって店内に戻ろうとするボーイの顔をもう一度見上げた。
「エ…、エルザ?」
振り向いたボーイは、また小さく笑った。
「エルザ、歌います。きっと来て。バイバイ、カナン」
「…、バイバイ」
消えた彼の背中。頭に残るテノール。何度も名前を呼んでみる。エルザ、エルザ…、
「あ―――っ!」
知ってる!クォークが言ってた、クォークのバンドのヴォーカル、鳥肌たっちゃう声したエルザだ!
私は感極まってネオンにきらめく町中を走り出す。柄にもなくスキップしてみたり、お気に入りの赤いピンヒールが軽快なリズムを奏でた。
「(そっかぁ、あれがエルザかぁ。エルザと話しちゃった。あれ?私クォーク探しに行ったのに…、ま、いーや。ライヴで会えるって言ってたし)」
*
自宅の前。もう灯りはついていない。私は壁をよじ登り、あらかじめ開けておいたベランダから自室に戻った。
お忍びって、慣れちゃえば案外チョロいものよね。叔父様に怒られるのも嫌だし。
毎日、使用人が洗ってくれるシーツ、ふかふかのベッドにそのまま倒れこむ。何故か頬がゆるむ。エルザにまた会える、そう思うだけで幸せになれた。
「おやすみなさい、エルザ」
***
「ただいま」
「おう、おかえり。なんでこんなに早いんだ、まだ10時半だぞ」
「…バイト、クビ」
「っはは!またか。今度は何をやらかしたんだ?」
「客に水かけたらもう来なくていいって…」
「なんだそれは。せっかく俺がかわってやったバイトを…。そんなんじゃ、いつまでたっても社会に適応ないぞ」
「…ごめん」
玄関に突っ立ったまま謝罪を繰り返すエルザに、カリアゲが特徴的な男は苦笑する。
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