夜行の蜂

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   ふと手の甲に冷たい感触を感じると、ホクトだった。猟犬は慰めでもするかのように、主人の手を舐めていた。呆然とされるがままにするヤトの前で、猟犬は伏せていた目を上げた。黒真珠の両目は静かにヤトへ語りかける。 「ホクト。己れは――」 ――俺のことは構わないさ。 「だけど」 ――お前は俺の夢を果たしてくれた。『輿』を仕留めるって夢をな。 「それは、あんたが“戻ってくる”ために――」 ――侮るんじゃねえぞ。家族も何もかも捨てて『夜行』を追い続けてた俺に、今更人間であることに未練があるとでも思ってるのか。お前が俺の夢を果たしてくれた今、俺は還るだけだ。この山に。それのどこが恐ろしいっていうんだ?  ヤトは沈黙した。  父が死んだとき、山がヤトに返して寄越したのは歯や指や血の染みた猟銃だけではなかった。もうひとつ、彼の元に届けられたものがあった。それは家の戸口で自らを見上げる一頭の猟犬。一瞥(いちべつ)でヤトは理解した。闇の内に灯る火のような、漆黒の両眼――幼きヤトが心から熱望し、ついには手に入れたその両眼を、彼が見紛うはずがなかったのだから。  いかような力や理屈がそこにあったのかはわからない。わからないがしかし、それは彼が師と仰ぎ、いつしか父と呼んだ男の、もの。夜斗に己の名の一部を与えた男の――北斗のものだったのだ。 ――使え。『輿』の力を。  あらゆる音を遮断する仮面の内にあって、その声ははっきりと彼の耳に届いた。『輿』の腹からは、どくりどくりと、ほの白い乳が流れていた。  
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