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「また山に入るの」
出かけようとするヤトの後ろから、不安げな声がかかった。
「なんだイザヤ。まだ起きてたのか」
「寝ないよ、ヤトが帰ってくるまで」
「己(お)れは朝まで帰らないぞ」
「じゃあそれまで待ってる」
強情なイザヤに、ヤトは厳しい顔を作って振り返る。
「こんな山の中で、真夜中に子どもが一人で起きてるもんじゃない」
イザヤはふもとの村の娘だ。なんの因果からか夏の間だけ預かることになったのだが、夏を過ぎても秋を過ぎても未だに迎えが来る様子はなく、つまりは体(てい)のいい厄介払い。イザヤは少し足が不自由だ。これといった身寄りもなく、村からも離れて暮らすヤトは、押しつけ先としてはちょうどよかったに違いない。
あるいは贄(にえ)のつもりであっただろうか。たまにそんな考えが頭をもたげることもあったが、ヤトは努めて考えないようにした。自らのことを自らでできるのであれば、娘ひとり養うことなどヤトにとっては造作もない。ここは山で、彼はとりわけ優れた狩人であるのだから。
「わたしはもう、子どもじゃない。……だからっ」
「いいから眠れ。行くぞホクト」
名を呼ぶと、土間の隅でじっと待っていたホクトがむくりと起き上がって駆け出した。戸口に立った途端、尾を下げて耳を立てる仕草を見れば、ホクトも気づいているのだろう。
今夜は間違いなく、現れる。
「ねえ、ヤト」
「火、消すなよ」
後ろ手に戸を閉めて無理やり会話を終え、ヤトは麻袋と猟銃を担ぎなおした。空には人を喰いそうに巨大な月が出ているが、おかげで明かりを取りに戻る必要はなさそうだった。
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