夜行の蜂

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   ヤトが村から離れて暮らしているのは様々な理由からであったが、根本的なものを挙げれば彼が『夜行』を追う者であること、ただその一点に尽きた。村人たちは彼が腕利きの猟師であることは知っているし、その天涯孤独(てんがいこどく)の身の上に同情する向きもある。彼が『夜行』を追うかたがた捕らえてくる獲物が、村の貴重な財源となっていることも彼らは理解していた。だがその上ですら、山あいの小さな村の住人たちにとって『夜行』を追うことが禁忌であり、それを冒す者が異端であることに揺るぎはなかったのだ。  数え上げることもできぬ長きに渡り蓄積された因習は、往々にして理性の声を凌駕(りょうが)する。――『夜行』。それはこの世ならぬもの。人の身で触れてはならぬもの。  藪の中で機をうかがうヤトの前で、『輿』は一瞬、輪郭をゆがめた。巨大な球体というたいそう無機物じみた姿をしていながら、それはまるで獣が腹を波打たせるように身を震わせるのだ。背筋の粟立(あわだ)つ光景だった。視線を獲物から外さないまま、ヤトは猟銃を背中から下ろし、いつでも撃てるように用意した。こんなモノに猟銃が通用するのかという疑念が脳裏をかすめたが、むろん無視をする。  そして『輿』は唄を歌いはじめた。  夜の音楽。人の心を狂わせ、命を奪う異形の唄が山を渡ってゆく。  冷たくぬめった何かが身体を這(は)い回るような感覚を覚えてヤトは総毛立った。耳は塞いでいるといえど、蜂の羽音に似た低い唸りは全身の毛穴という毛穴から彼の精神へと干渉の手を伸ばしてくる。月の光も心なしかその濃厚さを深めたように思えた。出ていくなら今しかない。沈めていた腰を浮かせ、ヤトが走り出そうとした瞬間だった。  
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