夜行の蜂

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   その間にも、イザヤは『輿』へと一歩一歩近づいてゆく。獲物の接近を認めた羽音はますます昂(たか)ぶりを増し、『輿』の白い腹は蛇のようにうねりのたうつ。凄まじい大音声に、陽炎のごとく景色がゆがみはじめた。 「すまない」  ヤトは足を止めた。仮面をつけ、何も聴こえないはずの耳の内で絶望が荒れ狂う。もう、間に合わない。気づくのが遅すぎたのだ。イザヤがどうやってここに辿り着いたかは今をもってもわからなかったが、たとえ気づいたと同時に『輿』を撃って、それで仕留(しと)められたとしても、唄自体をなかったことにはできないのだ。間に合いはしなかったろう。  ホクトだけがまだ諦めることなく、『夜行』たちに飛びかかっていたが、けれどそれすらも遅いのは明らかだった。たとえ今すぐ助け出すことができたとしても、イザヤが正気を取り戻せる可能性は皆無に等しいのだから。ヤトの師は山に流れる唄を耳にしただけで、狂気に呑まれて死んだという。いわんや、あれほどの至近で、あれほどの大きさで耳にしたイザヤのことは、考えるまでもなかった。  ヤトは見てきた。気の触れて、水の代わりに泥を啜(すす)り、肉の代わりに藁屑(わらくず)を食(は)むようになった者たちを。疎まれ蔑まれながら惰性のように生きて、腐り落ちるようにして死にゆくしかなかった屍(しかばね)たちを。ならば。 「すまない」  そして、少女は死んだ。ヤトが殺したのだ。  
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