第一部・悠子と巧

3/67
前へ
/67ページ
次へ
今年で二十九歳になる小湊悠子はショートカットの髪形で眼のくりっとした清楚な美人ながらも、いまだ良縁に恵まれずに独身のままで、この「囲炉裏」のギター部のボランティア講師として老人を相手に童謡を中心としたレパートリーの講座を受け持っていた。七月十三日、木曜日、すでに遅咲きの紫陽花模様のワンピースに身を包み、小湊悠子は上野の東京文化会館に来ていた。日本でも屈指のギタリストの荘村清志のリサイタルが小ホールであったのである。荘村は俳優で自殺した伊丹十三と縁続きにあたっていたので、当然のことながら俳優で最近ではジャズ・シンガーとしても幅広く活躍している宮本信子とも親戚の間柄であった。「武満徹さんに心をこめて」というのが今回のリサイタルの主旨である。映画、音楽、美術、文学と多彩な活動をしていた武満は、オリジナルのギター曲や有名な曲の編曲などもしている作曲家だったのであった。亡くなって十年の今年の節目は、武満に関した催し物が幾つも予定されていた。悠子の席はQ列という最後尾に近い席であったが、この小ホールは舞台を要に扇型の客席をあつらえた設計で、音の抜けがよく、この席でも充分にギターの音は聴こえるのである。このホールに来て悠子は客席の中に見知った顔が幾人かいることに気がついた。
/67ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加