私に足りなかったもの

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同じクラスの子にだってなかなか話しかけられなかった私が、気づいたら初対面の男の人に声をかけてた。 今日は暑いですねって。 そしたらリツは急に声をかけられたことに驚いたように、スケッチブックから顔をあげて、まっすぐ私を見たの。 ―でも風は涼しいですよ。 本物のリツだと思った。 リツは人懐っこくて、私なんかでも話し相手にしてくれたわ。 いいえ。 人付き合いが苦手で長年人を遠ざけてきたくせ、私は人肌が恋しくて頭の中で想像するうちに、遂にはあんな幻覚を見ていたんだわ。 だからリツが相手してくれるのも当然だった。 私の脳が作り出した、自分を維持するための手段だったのだから。 幻覚だと分かっていてもリツといるのは居心地がよかった。 暖かな昼下がり、涼しい日陰のベンチでリツは毎日湖の絵を描いている。 私はその横で刺繍をするのが日課になった。 でもそれだけじゃ物足りなくなった。 もっとずっとリツといたい。 それには同居する父親が邪魔だった。
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