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アフリカ・インド省設置  …第二次世界大戦によって大日本帝國はアフリカのマダガスカル及び諸島、インド洋全域の支配権を獲得したことによりアフリカ・インドを支配に当たる行政組織の編成の必要が出てきた。当初は南洋省に編入する予定だったが、東南アジアから離れているということと欧州からの距離が近く重要な地域であることから一つの省となった。 帝都大乱事件  …陸軍青年将校と朝鮮人将校によるクーデター事件。1952年に期限が切れる日独米中立条約後の拡大路線を提起し、維新を起こそうとした事件。帝都に配備されていた第35師団の歩兵第220連隊第2大隊及び新設されたばかりの朝鮮人第1連隊によって引き起こされた。1000名を超える兵力が結集し、帝都の各重要施設が襲撃された。一時は朝鮮人部隊により宮城までが襲撃された。(連絡を受け、集結した近衛第一師団の防戦により阻止)その後、朝鮮兵と日本兵は皇居の襲撃について決別し、日本兵は帝都中央部に居座り、朝鮮兵は横浜方面に進み、略奪行為を行なった。その後、日本兵は投降、朝鮮兵は戦車第1師団及び近衛師団の包囲攻撃によって壊滅した。この事件によって数十名に及ぶ政府高官・軍高官が死亡、東条英機首相も負傷した。日本兵は指揮を取っていた御國忠盛中佐の必死の弁護により、数名が昇格差し止めになっただけで原隊復帰、中佐自身は自身の公判前に割腹自殺した。朝鮮兵は略奪行為・指揮系統無視・宮城襲撃などの罪で159名が死刑、184名が服役、233名が不名誉除隊となった。死者は政府高官17名、近衛師団28名、朝鮮人第1連隊に128名、戦車第1師団に4名、民間人355名。この事件によって朝鮮人部隊の完全解体が決定した。 帝國高度政治経済発展計画  …帝都大乱事件後に負傷によって辞職した東条内閣に代わり立てられた鈴木貫太郎内閣による帝國の発展計画。約5年間の間に①自動車・精密機械産業の発展②財閥以外の民間企業の育成③国家に頼らない自立した経済の建設④国際的な組織への加盟⑤段階的な思想・表現の自由の回復などを盛り込んだ。
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