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鏡合わせ
人の好い笑みを浮かべた彼女。
まるで聖母のようで、どんなことも許してくれそうな優しい微笑みだ。
声を掛けられれば更に頬を緩めて、楽しげに会話を交わす。
相手がどんな人間だろうとそれは変わらなくて、好意を向けられれば応えてやろうと笑顔を振り撒いた。
彼女は辛いと思ったことは無いのだろうか?
いつでも目一杯笑っていて、楽しげで、優しくて。
きつい冗談にも難なく対応してみせて、本当に聖母のよう。
嫌味な上司にも笑って対応。
どんな皮肉を浴びせられ、無視をされ、酷い言葉を掛けられても笑ってみせる。
悲しいと、思ったことはないのかい?
尋ねてみたいけど、臆病な僕はその一言すら口にはだせなかった。
だからずっと眺めていた。
彼女が辛いと思った時、僕気付いてあげられるように。
ずっと見詰め続けていた。
ああ、また。
あの嫌味な上司が彼女に酷い言葉を掛けている。
彼女は笑っているけれど、本心ではひどく傷付いているんじゃないか?
去っていった上司の背中を少し眺めたあとに、彼女は小さな小さなため息を吐いた。
やっぱり、辛いと感じているんだね。
僕は彼女を部屋に招いて、話を聞いてあげようと考えた。
僕の部屋にやって来た彼女を見詰め、労るように、優しく問い掛ける。
「いま、何かして欲しいことはない?」
相談にも乗るけど、ストレスの捌け口にもなってあげるよ。
そう聞いた僕に、彼女は驚いたように瞬きを繰り返した。
少し考えるような仕草をして、ふいに僕に手を伸ばし微笑んだんだ。
「なら、鏡を見て欲しい」
柔らかな口調でそう言った彼女だが、僕は訳がわからずすぐには頷けなかった。
「僕が鏡を見たら、何か変わるの?」
尋ねれば、彼女は小さく頷き返す。
ならば。
そう思い、彼女の見守る中で部屋の姿見を覗き込んだ。
写り込んだのは、今隣に居るはずの彼女の姿。
どういうことだ?
不可解な出来事に、僕は戸惑った。
すると彼女は僕の耳元に唇を寄せて、柔らかいままの口調でそっと囁いた。
「私を解放して?」
アナタが、私を、閉じ込めるから、私は、笑うことしか、出来ないの。
ゆっくりと、そう告げた彼女。
僕はどうしてだか息が詰まったみたいに呼吸が出来なくなった。
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