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「これは南の坊っちゃま、お身体お変わりございませんか」
年老いた家政婦だけは、事件以降も変わらず接してくれていた。だから、少しの間だけでもまともな人間なんだと思えるのだった。だが十円玉に限りがあるので、すぐに本宅の奥様を呼び出してもらう。
大抵、待っている間にピーと電話が切れる予告音が鳴るから、急いでありったけの十円玉を注ぎ込む。この瞬間が一番みじめで嫌だった。力強く受話器を耳に当てているから耳朶は熱く、きっと赤くなっていることだろう。こんなところを塾帰りの同級生に見られたくない。他人に金をせびっていること以上に恥ずかしくて誰にも知られたくなかった。
十円玉が何枚か虚しく落ちた頃、本宅の奥様が現れた。
「南の奥様はお元気かしら?」
心にもない社交辞令はさっさと切り上げ、いきなり本題を告げる。
「至急お金を送金して頂きたい。お願いします」
本宅の奥様が自分の話の腰を折られたことにむっとしていることにさえ、それすら遮るかのように繰り返し告げる。
「至急お金を送金して頂きたい。お願いします」
受話器の向こうからヒステリックな声が聞こえてくる。俺はそれも無視して、自分のセリフを繰り返した。
「至急お金を送金して頂きたい。お願いします」
まるで小学生のときの学芸会だ。小鳥さんCだ。たったひとつのセリフだけを繰り返しいう。まったく同じことをしている。
受話器の向こうの金切り声は続いている。次は親父だけでなく、あんたの息子を刺してやろうか、つまり親父の一番大切な宝物を壊したら、受話器の向こうは静かになるのかな。
耳朶が熱い。
受話器の向こうが静かになった。俺はこれで最後と願って、唯一与えられたセリフを繰り返した。
「至急お金を送金して頂きたい。お願いします」
一時一句間違えることもなく流暢に。ややあってから、
「わかりました。あなたのお父様から急ぎ送らせますから………」
俺は最後まで聞かずに電話を切った。いつもお釣りは残らなかった。
俺は生徒手帳を胸にしまうと、雨の中を走っておんぼろアパートに帰っていった。
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