消えた日常

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ぼくは妻の手を握り、旅館の階段を駆け上がった。 あの従業員さんは高台に向かったようだ。 旅館に残したもの、それは小さなアルバムだった。 写真が好きな妻は何かあるとすぐに時代遅れの一眼レフを取り出し、フィルムに収めた。 今時フィルムか、新しいデジカメには買い替えないのか、と聞くと妻は決まって、新しいものだから失われたこともあるのよ、と笑顔で答えた。 初めて2人で旅行した日光、結婚式、初海外のグアム、そして去年死んだ妻の親父さんや離れて暮らす家族の写真などアルバムにはみんなの時代が写っていた。 部屋の扉は開いていた。 どうやらあの従業員が掃除していたらしく掃除機のコンセントがささったままだった。 荷物は散らかり、クローゼットは開き、妻の一眼レフで撮った結婚式の写真が畳の上に落ちていた。 妻は部屋に入り、あの小さなアルバムを探し始めた。 ぼくもつられて探し始めた。 ゴゴゴッー 鈍い地響きが海のほうから聞こえた。 ぼくは窓を開け外を見た。 海岸線に連なる住宅街が恐ろしい速度で迫ってきた。 もう外に出る余裕はなかった。 アルバムを探す妻の手を引っ張り廊下に出た。 「屋上に逃げよう!下に行ってたら間に合わない!」 妻の足元など気にしている余裕はなかった。 ヒールのついた靴をかかとが入りきらないまま走っていた妻は階段を2、3段上ったところでつまづいた。 その時…… 凄まじい衝撃が建物に走った。
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