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日が暮れるのもすっかり遅くなった。陽射しが明るい。
春が、来ているのだ。
やわらかなせせらぎの音を聞きながら、若草の上に寝ころぶ彼は「ん」と大きく背伸びした。
向こうには若々しくきらきらとした山波が浮かぶ。
「ふう……」
質素な成りをしたその男は一歩間違えれば貧相とも言えそうなものであるが、不思議と質素以外の何とも言いがたく、人でありながらどこか彼を取り囲む川や山や、風や花に近い空気を持っていた。
「…………」
こうしているとあの目まぐるしく酸鼻(さんび)な乱が、もやの向こうにすっかりかすんでまるで嘘であったかのようだ。
男はそんなことをふと思い、すっかり暢気さが板についてきた妻や子の顔を思い浮かべた。
ここに来てよかった。町外れというのも良い。ここは平和だ。
ここは――……
――ああ春だ、春が来たんだ、と彼はふうと周りの空気を取り込み、いっそうそれに溶け込んだ。
見よ。感じよ。あかるい日の光を浴びてかがやくこの川の、山のうるわしさ。
春風。
花や草の香りを乗せてやって来る。
ああ暖かい。
彼は川辺に目をやる。上空には燕の元気な声が飛び交っている。
――いつの間にか長く凍っていた泥も、融け出している。
燕たちが巣材にそれを頂戴しようと、その周りをせわしく飛び回る。
陽を吸った川辺の砂は暖かいのだろう。砂の上では、つがいの水鳥がうつらうつらとねむっているのだった。
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