ディーヴァ

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大きな赤レンガの倉庫群に、海からの湿った風がまとわりつき、それから僕らに微風をもたらす。 ぬるい空気を絡めとる風に海の匂いを感じる。 どこからか耳障りな男の、甲高い笑い声が聞こえる。 僕は、臆病者ではないと思ってたけれど、気がついたら拳を握りしめていた。 じっとりと汗が滲んでいる。 「父さん……」 「ん?」 「その店は、どこなの?」 「もう着いたよ。すぐそこだ」 父さんは、そう言って、歩きながら僕の顔を数秒見て、微笑んだ。 まるで僕の心情を見透かしたように。 目的の建物も赤レンガだった。 五階建ての奥に細長い建物で、地下に降りる階段が正面にある。 僕は、壊れかけたネオンを読んだ。 「DIVA……ディーヴァ?」 父さんは、階段を降りて行く。 僕も降りて行ったが、途中で足が止まった。 扉の前に一人の筋肉隆々とした黒人が立っていたからだ。 だけど、父さんは歩みを止めず黒人の前に立った。 息を飲む僕の前で二人は唐突に笑い合い、がっしりと腕相撲みたいに握手した。 それから生まれて初めて、父さんが英語で喋っているのを聞いた。 英語の成績は悪くなかったが、父さん達の会話は聞き取れなかった。 それから、黒人男はドアを開き、さあどうぞとジェスチャーした。 固まったままの僕に父さんは、行くぞ秋良と言い店内に入る。 僕も慌てて後を追う。 黒人男が僕の肩を叩いて何か言ったが、僕は情けない事に、愛想笑いを浮かべただけだった。 店内は薄暗く、狭かった。 明るいのは中央奥のステージだけで、他は小さなダウンライトが、おぼろげにいくつかのテーブルに光を落としているだけ。 それよりも僕を圧倒したのが、様々な楽器の生演奏だった。 サックス、ピアノ、弦楽器などの音が店内を満たしていた。 ジャズ……これが本物のジャズか……。僕は身が震える思いがした。 父さんが僕の耳元で言った。 どうだ秋良? 僕は黙って頷いた。 そんな僕に父さんは言う。 とりあえず座ろう。 店内には置けるだけの丸テーブルが置いてあり、僕らはステージから一番遠い席に座った。 店内を少し見回すと、ステージの斜め横に、バーカウンターがあり、金髪の若いウェイトレスがこちらに来るところだった。
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