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「沙紀は僕の恋人だよ。毎日この病室に来てくれて、僕の面倒をみてくれていたし、母さんだって何度も会っているだろう?」
僕の言葉に対して、母は相変わらず不思議そうな顔で僕を見ている。
「彼女は僕の病気を治すために医師を目指して、僕の看病をしながら勉強をして、東京の医科大学に合格したんだ。覚えていないのかい?」
「何を言っているの、あなたは。あなたに恋人なんていなかったわよ。もちろん沙紀なんて女の子もいない。きっとあなたは夢を見ていたのよ」
僕は母の言っていることを容易に信じることはできなかったけれど、考えてみれば、僕は幼い頃から入退院を繰り返していて、学校にもろくに出席していないし、中学校を卒業してからは高校にも進学せずにずっと入院生活をしているのだから、恋人などいるはずもないのだ。
それでも、僕は東京に旅立つ日の沙紀をはっきりと覚えているし、あのとき交わした口づけの柔らかさもはっきりと覚えている。
そして、あの日、飛行機が飛び立っていった、澄み切った青い空もはっきりと記憶の中にある。
沙紀のことが夢であるとはとても思えない。
だけど、おそらくは母の言うことが正しいのだろう。
せっかく目が覚めたにも関わらず、そこには沙紀がいない。
ただ遠く離れているというのではなく、この世界に沙紀という人間が存在しないのだ。
僕はほとんど絶望にも近い悲しみを感じていた。
そんな僕の心情など全く関係ないと言わんばかりに、駆けつけたばかりの医師は僕の身体をいろいろといじりまわし、そして容態が安定していると判断すると、母にいくつかの説明をして病室を出ていった。
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