一日目

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 結局、私は日本史の予習で時間を潰した。そろそろエレベーターで待つとしよう。外に出ると涼しい風が迎えてくれた。残暑は先週で終わり、過ごしやすい気温になってきている。これなら待っている間、汗を掻かなくてすむだろう。  五、六分してエレベーターが上に向かっていった。香平くんかな? 間違いでも構わない。私の指は躊躇することなくボタンを押した。エレベーターが降りてきて、開いた。  足が硬直し、次第に震え出す。香平くんが乗っているからという理由じゃない。高校になって毎日してきたから緊張なんて春過ぎに克服した。こういう行為を『ストーカーだ』と言われたら反論できないが、そんなことを議論する時ではない。  エレベーターに入れない。足が笑って立っているのがやっとだった。理由は中に夢で見た死体が転がっているから。目があるはずのところが二つとも空洞になっている。喉の奥から苦い胃液が湧き出してくる。それを必死に押さえて泳ぐ目を香平くんに合わせた。 「おはよう」  笑顔を作って挨拶すると頬が痙攣を起こしそうだった。  里美の笑顔は初対面の人には最大の武器になる。二、三回見ても慣れることはないだろう。昔のおれも里美の笑顔を見た時は視界が歪んだものだ。あの日以前の里美は喜怒哀楽どれも信じられないくらいの表現力だったのに。  笑えばおれまで笑顔になるし、怒れば手が付けられないし、悲しめばそばにいたくなるし、楽しそうにしていればこっちまで混ざりたくなる。そんな女の子だった。  今は違う。あの日からずっと。自然に笑えない。怒っても、悲しんでも、楽しんでも、相手に通じることはない。里美の表情はいつも仮面を被っているみたいだ。でもそれは彼女が意識的にやっているわけだはない。できないのだ。あの日から。 「おはよう」  彼女の笑顔を見る度に昔の笑顔が記憶から劣化していく気がした。写真ならある。見るだけでつい頬を緩めてしまう彼女の写真が。でも本人を見てもその笑顔が思い出せなくなってきている。それが嫌だった。彼女の本当の姿を知っているのは両手で足りるくらいしかいない。だから忘れたくない。違う、覚えておかなくちゃ駄目なんだ。  涙腺が刺激され、胃液が沸騰し、右目がブラックアウトする。あの日以前を思い出そうとすぐこれだ。忌々しい。
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