34人が本棚に入れています
本棚に追加
「――!」
一刻も早くここから立ち去りたかったはずなの楓の足がぴたりと止まってしまった。
にどと振り返るつもりのなかった人だかりの方に振り返って驚いた。
奇声を上げてた連中が、ぴたりと大人しくなり一瞬にして辺り一面を夜の静寂が駆け抜けた。
まるで一瞬時が止まってしまったかのような感覚に襲われた楓。
さっきまでうるさかった奴らが不気味な程に黙り込んだと思うと、今度は隣り合わせの人同士で囁き声でソワソワと喋りはじめた。
「まあちょっと待てよ、楓。ここからがいい所なんだからよッ」
清水が慌てて楓の側にやってきた。
「みんなどうしたんだよ・・・・・・急に」
「ん? みんなって・・・・・・ああこれなッ」
妙に真剣な顔になってた楓を見た清水だったが、すぐにその原因を解釈して言った。
「メインイベントが始まるのさ――」
「まあ見てなって。次元の違いにビビるぜッ。評判はあまりよくないけど、この霧宮峠では最速最強のドリフトだからな」
最速のドリフト?
楓には清水の言っていることが、いまいちピンと来なかった。
楓にとって、ああいったドリフトはただのパフォーマンス。
ギャラリーをただ楽しませるだけの演技に過ぎず、そこに最速とか最弱とかの優越などないものだと捉えていたのだが。
しかし満を待して現れたそのクルマのドリフトを見たそのとき、久住 楓の人生観を一変させる思わぬ衝撃が駆け抜けるのである。
ズバッと風を切り裂くような音がコーナーの入り口から轟いた。
「――!!」
不思議なことに、それまでドリフトに対してなんの興味も示さなかった楓の脳がこのとき初めて活性化したのだ。
現れたのは非常に小さなクルマ。
“NAロードスター”――
先行車と比べて非常にコンパクトな白のボディーに、パカッと開いたリトラクタブル・ヘッドライト。
それしかわからなかった。
速過ぎて。
見えなかったのだ。
さらにその“ロードスター”は、コーナー手前に差し掛かっていた時点で車体を振り、見えたときにはすでに90度近い角度を継続していたのだ。
勘の鋭い奴がすぐに身を翻し、後の者が続いて将棋倒しのように騒いだ。
130キロは出ているだろう鉄の塊が、コントロールを失った状態で観客を襲おうとしてるのだ。
完全なる失敗。
最初のコメントを投稿しよう!