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「潤……」
「父さん、大丈夫だよ。俺はちゃんとしきたりを守るから」
リビングを飛び出したときとまったく変わらず頭を抱えこんだままの父親に、力なく微笑んだ。
そうか、とだけ小さく呟いて書斎に行ってしまった父親を見送り、今にも溢れてきそうな涙を唇を噛みしめて耐えた。
風間に心だけは屈したくないというなけなしのプライドだったのかもしれない。
「ただいま」
「あ、母さん。お帰り」
母親は父親の事情は知らないはずだ。
もっとも自分の妻に他の男に抱かれているなんて自ら言うような馬鹿な男は居ないが。
顔に力を入れて、わざと笑顔を作って玄関まで掛けていく。やはり、買い物に行っていたらしい。
大量のスーパーの袋を床に置いて、母親がブーツを脱いでいる間に袋をダイニングテーブルまで運ぶ。書斎に行っていた父親もいつもと変わり無い柔和な笑みをしながら玄関までやってきた。
「タイムセールでね、ついいっぱい買っちゃったのよ。あ、潤。合格だったらしいじゃない!春菜ちゃんから聞いたわよ」
「春菜姉さんから?」
「さっきばったり会ったのよ。さ、今日は腕によりをかけてハンバーグを作るから、お祝いよ」
そう言って鼻歌混じりにエプロンを付けはじめた母親を横目にソファーに座りテレビのスイッチを入れた。雑音にまみれていれば、聞きたくない声を聞かなくてすむ。
隣では、優しい声色で母さんに話し掛けている父さんがいた。
俺に、そんな上手い演技はできそうにないらしい。
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