1.「客が落ちていた日。」

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その茶屋の、朝はさほど早くない。 魔法小路の住人は、大体において夜を好む。 だから通りのどの店も、早朝から開いていることは、ほとんどない。 住人の時間に合わせてこの店も、昼過ぎから営業を始め、 深夜まで開いている、というパターンが多い。 さすがに一晩中、ということはないが、世間一般で知られている『喫茶店』や『茶屋』の営業時間からすると、 かなり遅くまで開いていると言えるだろう。 店の名前は、『ただの茶屋』。 本当は、ちゃんとした名前があった。 けれど、最初にこの店にやって来た、どうやら迷い込んだらしい、どこぞの騎士が、 珍しげに店内を観察し、首をひねり、 しげしげと店主を眺めた挙げ句、 『なんだ。ただの茶屋か』 と、言った。 魔法小路に何か、期待していたらしい。 そこで何の変哲もない店に出くわしたものだから、思わずそう言ってしまったのだろう。 店主は答えた。 『はい、うちはただの茶屋です。 お茶とお菓子がございますが、どうなさいますか』 騎士はむすりとした顔をして、ロールケーキやスコーンを睨んでいたが、 無言で席につき、出されたミルクティーと共に完食し、 代金を置いて帰って行った。 その後も何人か、同じような客が訪れた。 彼らは一様に、驚いたり、呆れたりした後、 決まって同じ台詞を言った。 『なんだ。ただの茶屋か』 魔法小路にありながら、魔法のまの字も出て来ない、 ごく当たり前の、普通の店。 落胆しつつも、その店のお茶とお菓子を堪能すると、 彼らは彼らの日常に戻って行った。 繰り返されるうちに、店の名前は忘れ去られた。 店は、『ただの茶屋』という通り名で、知られるようになってゆく。 魔法小路の『ただの茶屋』。 この店に出会うのは、ハズレだと言う者もいれば、 実はとても幸運だと言う者もいる。
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