第1章

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幸いと言っていいのか、 あの時、私の家は父親が不倫したり、 母親が帰って来なかったりで 家に帰っても帰らなくても誰も何も言うことはなかった。 しばらくの時間が経った時。 彼が口を開いた瞬間のことは、今でもよく覚えている。 何にしろ、今まで一言も喋らなかった人間が喋ったのだ。 そう。 どこか何もない未知の世界から引き戻された感覚。 まさにそれだった。 「…ありがとう」 初めて、その男の声を聞いた。 かすれたような、 泣いているような。 そんな声。 彼の声は、とても良い声とはいえないけれど、 人を落ち着かせる力があると思う。 そしてその時の私にとって、 “ありがとう”なんて言葉は久々だったからか、 懐かしくて、 あたたかい気分になったのも、まだはっきりと思い出せる。 私はそんな彼のはじめての言葉に一言、 「うん」とこたえた。
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