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幸いと言っていいのか、
あの時、私の家は父親が不倫したり、
母親が帰って来なかったりで
家に帰っても帰らなくても誰も何も言うことはなかった。
しばらくの時間が経った時。
彼が口を開いた瞬間のことは、今でもよく覚えている。
何にしろ、今まで一言も喋らなかった人間が喋ったのだ。
そう。
どこか何もない未知の世界から引き戻された感覚。
まさにそれだった。
「…ありがとう」
初めて、その男の声を聞いた。
かすれたような、
泣いているような。
そんな声。
彼の声は、とても良い声とはいえないけれど、
人を落ち着かせる力があると思う。
そしてその時の私にとって、
“ありがとう”なんて言葉は久々だったからか、
懐かしくて、
あたたかい気分になったのも、まだはっきりと思い出せる。
私はそんな彼のはじめての言葉に一言、
「うん」とこたえた。
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